盗作騒動、槙原も松本氏も譲らず
まず、前提として、これがもし法廷闘争になった場合の見通しですが、今までいくつかの著作権の判例を見てきた経験から言うと、著作権侵害が認められる可能性は低いと思います。
特に著作物性の判断は客観的に明確な基準があるわけではありませんので、あくまで裁判所の主観による判断になりますが、ひとつにはこのフレーズが文字の著作物としては短すぎるのと、このフレーズの創作性は表現よりアイデア・思想にあるのであって、しかしそれは著作権法の保護対象ではありません。このケースでは裁判所としては、表現の創作性を必要以上に広く認めることによる弊害(アイデア・思想の公共利用阻害、精神的自由の制約)も考慮することになるでしょう。
一般的な民法上の不法行為や、不正競争防止法の不正競争行為の主張も、難しいと思います。
さて、このニュースを読んで、「松本先生は、拳をふりあげる高さを間違えた」というのが、私の印象です。大先生がこのフレーズの思想的な部分にポイントを置いているのは明らかであり、だとすればこれが仮に依拠しているとしても、思想への共鳴者が現れたのならそれは同志にこそなれ、大先生には何らの損害もないはずです。
もし大先生に「自分がその思想の開祖であることを主張したい」という気持ちがあるのなら、話が公になる前にこっそり槇原氏サイドと交渉して歌詞カードにでも名前を載せてもらえばそれで用は足りた話で、この程度の要求なら(仮に依拠していなくても)槇原氏サイドもトラブルを避けるために、すんなりのんだ可能性が高いでしょう。
ところが大先生はいきなり「盗作だ!」というところから入ってしまい、しかもそれを公にしてしまったわけで、これでは槇原氏サイドも、法廷闘争になれば分があることくらいは計算しているでしょうから、態度を硬化させざるを得ないでしょう。
松本零士氏ほどの大先生がこんな問題でもめること自体、世間のイメージはマイナスでしょうが、これで結局交渉での要求も通らず、もし法廷闘争に突入して返り討ちにでもあえば、お歳もお歳だけに、それこそ「晩節を汚す」ことになりかねません。
知財にいた頃に契約の交渉というのをいくつかしたことがありますが、たとえ自分に理があると信じようとも、自分の要求を主張するだけではダメなのが大人の世界です。相手の要求も聞き、立場を理解してあげて、相手も困らないように、相手の顔も立ててあげる、そうして初めて自分の要求を通してなおかつ相手との良好な関係が築けるというものです。
たとえお互いの顔を潰しあうことになろうとも後先考えず感情むき出しでぶつかり合うのは「子供のけんか」であって、今回先生がこういう形で相手の顔を潰し、自分の名前にも傷をつけて、何かのドラマではないですが、こんなことしていったい誰がハッピーになるのだろうか?と思います。
しかし最近は、こと知財紛争に関して、松下とジャストシステムの特許訴訟など、「小利をむさぼりて大利を失う」ような、後先をあまり考えているとは思えない権利主張が目に付きますね。相撲の立会いと同じで、特に最初の「拳のふりあげ方」は大切です。
以前ホンダが中国の模倣品メーカーの技術力を高く評価して正規品(二輪)を作らせることにした、ということがありましたが、権利主張もお互いがハッピーになるように、冷静に賢くやらないといけません。
ところで、報道を見る範囲では、先生の感情が非常にダイレクトに伝わってくるように思えるのですが、松本零士氏ほどの大先生に、マネジメントするようなスタッフは付いていないのでしょうか。もしいるならそういう姿を世間にさらすのは先生にとってマイナスだと、先生を制止するだろうと思うのですが、マネジメントはいなくて先生もあまり気にしない方なのか、あるいはあれほどの大先生なので、いても誰も止めることができない、ということなのか・・・
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